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福岡に在る教会・福岡召会・The church in fukuoka

神はおられる

聖書・・
詩14:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。(口語訳)

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る者は、神がおられることを信じ、彼を熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。(回復訳

ローマ3:19-20 さて、律法が言っている事柄は何であれ、律法の下にある人々に対して語っていることを、わたしたちは知っています.それはあらゆる口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するためです.なぜなら、律法の行ないによっては、いかなる肉も、神の御前に義とされないからです.律法によっては、罪の明確な自覚があるだけです。(回復訳

  この午後、わたしたちは難しい主題について語ります。実際、そのような主題について語ることはとても困難でしょう。わたしは認めなければなりませんが、わたしがこの主題について語るのは、わたしの生涯でこれが二度目です。その主題とは何でしょうか? それはヘブル人への手紙第十一章六節が述べていることです、「神に進み出る者は、神がおられることを信じ」。それはまた、詩篇第十四篇一節が述べていることでもあります、「愚か者は心の中で、/『神はいない』と言っている」。実際のところ、神の存在という主題について語る必要などありません。聖書はこの主題については論じていません。聖書は、人は神がおられることを信じるべきであるとしています。神はおられないなどと人が言う理由はありません。この問題はすでに解決しているかのようです。しかしながら、この世には自分のことを無神論者であると考えている者たちがいます。彼らは、神はおられないと言います。また彼らは、すべての事柄を支配しておられる神の存在を認めません。この思想は、とてもはやっているようであり、また人に歓迎されるものです。このような思想を持っている者たちは、思いにおいて他の人たちよりも進んでいるようであり、また他の人たちよりも有能であるかのようです。ですから、彼らはあえてこのように語るのです。しかし、わたしは彼らの誤りを指摘する前に、無神論者には様々な種類があることをまずあなたがたに示したいと思います。無神論者にはどれだけ多くの種類があるのでしょうか? ある種類は、わたしたちが論じる価値もありません。わたしたちがそれに応じる価値さえもありません。あるものはもっと価値があり、彼らと論じる価値もあります。わたしたちの間には、無神論者である人が何人かいるかもしれません。わたしはあなたがたに告げなければなりませんが、ある種類の無神論者に対してだけ語る価値があるのです。あなたがたにお尋ねします、「あなたはどのような種類の無神論者でしょうか?」。無神論者たちは、多くの種類があることを認めませんが、わたしたち外部の者たちは、より客観的であるので、彼らをその種類にしたがって分類することができます。


不道徳な無神論者

 このような種類の無神論者たちとは、語る必要もありませんし、また彼らとの議論に加わる必要もありません。わたしたちのすべきことはただ、彼らの振る舞いを見ることだけです。多くの人々は自分が無神論者であることを認めませんが、彼らの振る舞いは、彼らが無神論者であることをわたしたちに告げています。彼らが何かを語る必要はありません。実際、彼らには何かを語る立場はありません。なぜなら、彼らの不道徳が、彼らの言葉よりも明らかに、はっきりと語っているからです。彼らが無神論者になってしまったのは、彼らの振る舞いが彼らに無神論者になることを要求するからであり、彼らに自分の見方を支持する十分な理由があるからではありません。彼らの不道徳は、宇宙に神がおられることを彼らに認めさせないのです。強盗は、警察官がいなければと考えます。悪い学生は、先生がいなければと考えます。気むずかしい労働者は、主人がいなければと考えます。邪悪な人は、法律がなければと考えます。このことは、これらのものが存在しないことを彼らが本当に信じていることを、意味するのではありません。それが意味することはただ、彼らの振る舞いが彼らを強いて、これらのものが存在しないと言わせているだけなのです。もしある人が、「わたしは神を信じません。わたしの思いの中には神などありません」と言うなら、あなたは彼の手を握って彼に尋ねることができます、「友よ、あなたは道徳的でしょうか?」。あなたは他のことを言う必要はありません。あなたはただ、彼が道徳的であるかどうかを問えばよいのです。人は、神はおられないと信じることはできますが、道徳などないと信じることはできません。わたしは年老いた者ではありませんが、わたしがこの数年間に会った無神論者の九十九パーセントは、道徳上の性格が疑わしい者たちでした。道徳上の性格が信頼できるものである無神論者に、わたしは一度も会ったことがありません。ここに座っているあなたがたのうちの何人かは、わたしよりも年上です。道徳上の性格が信頼できる無神論者にあなたがたが会ったことがあるかどうか、わたしは知りません。わたしたちの学友、同僚、友人たちの間にいる無神論者が神を信じないのは、彼らが道徳的にとても邪悪であるからです。わたしはあなたがたに一つの事実を告げます。すなわち、いつであれ神が人の生活の中から出て行く時、不道徳が入って来るのです。

 かつてアメリカに、R・A・トーレイ氏という名の有名な伝道者がいました。ある時、彼がある場所で宣べ伝えていると、一人の大学生がやって来て彼に言いました、「わたしはかつて、神がおられることを信じていました。しかし、もはやわたしは信じていません」。トーレイ氏が彼にその理由を尋ねると、彼は言いました、「わたしは大学で勉強し始めると、多くの知識を得ました。そのため、わたしはもはや神を信じたくなくなりました。わたしがこの本やあの本を読んでも、神はどこにも見いだされませんでした」。トーレイ氏は言いました、「そうではありません。わたしを欺いてはいけません。わたしも大学を卒業し、多くの本を読みました。わたしは博士号さえも取得しました。しかし、わたしは勉強している時も神を捨てはしませんでした。何か他の理由があるに違いありません。そうでなければ、勉強したから神を捨てるなどということは不可能です。あなたに一つ質問をさせてください。あなたが神の存在を否定して以来、あなたの道徳上の性格はどうなったでしょうか? その学生は正直に答えました、「わたしは、以前ほど道徳的に良くなくなったことを認めざるを得ません」。すると、トーレイ氏はすばらしい答えを与えました、「もうこれ以上わたしがあなたと議論する必要はありません。また、わたしがあなたに神が存在することの理由を与える必要もありません。もしあなたがあなたの邪悪なわざをやめて、あなたの道徳上の性格がより尊いものになるなら、神は直ちにあなたのところに戻ってこられます」。これは事実です。多くの人々が神を信じないのは、彼らに信じさせないようにする無数の罪があるからであり、彼らに多くの理由があるからではありません。彼らは無神論者にならざるを得ないのです。

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感情的な無神論者

 感情とは何でしょうか? 感情とは、人の心理の一部分であり、欲しいか欲しくないか、愛するか愛さないか、喜ぶか喜ばないか、好むか好まないかなどを専ら管理します。ある人は神を欲しません。彼らは神を嫌います。彼らは神を持たないことを好むので、神はおられないと言うのです。一つの物語をお話ししましょう。だちょうという鳥がいます。だちょうは大きな体を持っており、背はとても高いです。人がその上に乗ることさえできます。しかし、それを捕まえるためには、数十人が取り囲んで、だちょうが疲れるまで追いかけ回さなければなりません。だちょうはとても大きい体をしていますが、頭はとても小さいです。だちょうは、人々が追いかけて周りにやって来るのを見ると、足を使って地面に小さな穴を掘り、自分の小さな頭をその穴の中に隠します。だちょうは、だれも見えなくなればそれで安全であると考えるのです。だちょうは、自分の頭はたとえ穴の中にあったとしても、人が依然として周りにいることに気づいていません。その大きな体は依然としてあらわになっており、隠されていません。ある人々は、神がおられないことを願っています。彼らは、神のようなものはないと願っています。彼らの願いには何か意味があるでしょうか? 彼らが神を持つことを願わないということだけで、神は存在されないのでしょうか?

 かつてわたしはある所で福音を宣べ伝えていると、一人のとても邪悪な人がやって来てわたしに言いました、「イエスや聖書や福音については、わたしに何も話してはいけない。あなたはこれらの事については何も話す必要がない。なぜなら、基本的な問題がまだ解決されていないからです。神がおられるかどうかという最も重要な問題がまだ解決していないのに、どうしてあなたは福音について語ることができるのですか?」。その時、わたしは彼に尋ねました、「友よ、あなたは神がおられることを信じないのですか?」。彼は言いました、「わたしはすでにあなたに、神はおられないと言いました。なぜあなたは神がおられるなどと言うのですか? わたしに説明してください」。わたしは言いました、「もちろん、神がおられることをあなたは信じていません」。彼は尋ねました、「神はおられないとわたしが言っているのに、なぜあなたは神がおられるなどと主張するのですか?」。わたしは言いました、「あなた自身がその答えを知っています」。彼は当惑して言いました、「どうしてわたしが知っているのですか?」。わたしは言いました、「あなたは内側で知っています」。彼は少し困ったような顔をして言いました、「わたしが内側で知っているとは、何を意味するのですか?」。わたしは言いました、「あなたは、神がおられないことを願っているのです。わたしがこれ以上何かを言う必要はありません。あなたは内側で知っています」。彼は少し理解したようでした。そして、当惑して去っていきました。このような人に対して何かを語ったり、あるいは彼らと議論したりする必要はありません。実際、彼らを無神論者と考えることはできません。彼らは感覚の中で神を拒絶しようとしているだけなのです。

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「口先」だけの無神論者

 これらの人々は何か理由があって議論するのではありません。彼らはただ口先だけで、神はおられないと主張するのです。彼らはとても頑固であり、彼らと話し合う方法はありません。もしあなたが彼らになぜ神を信じないのかを問うても、彼らは何の理由もあなたに与えることができません。彼らは信じていないとあなたに言うだけです。あなたが彼らに神がおられることの百の理由を与えるなら、彼らは百一回戻ってきて、神はおられないとあなたに言います。たとえあなたが千の理由を与えるとしても、彼らはあなたに千一の理由をもってあなたに反対します。あなたはこれらの人々に対しては何もすることができません。彼らはただ頑固なだけです。彼らは、自分が語ったことを変えようとしません。たとえあなたが彼らと三日三晩話し合い、彼らが自分は間違っているとわかったとしても、彼らは依然として主張を繰り返し、あなたと言い争うでしょう。彼らは多くの理由を述べるかもしれませんが、彼らの理由はすべて偏見に満ちており、ごう慢なものです。彼らは自分の言うことについてとても頑固であり、彼らに対してだれも何もすることができません。彼らの思いは空であり、理由がありません。しかしながら、彼らの口は無神論的な言葉で満ちています。こういうわけで、わたしは彼らのことを「口先」だけの無神論者と呼ぶのです。

 以上の三つのグループの人々と論じ合うことは不可能です。しかし、もう一つのグループの無神論者がいます。このグループの人々にはもう少し望みがあります。しかし、その数はとても少数です。これらの人たちはどのような種類の無神論者なのでしょうか?

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理知的な無神論者

 理知的な無神論者とは何でしょうか? これらの人たちは、理由を述べようとする人たちです。もしあなたが彼らに適切な理由を述べることができるなら、彼らはあなたの言葉を受け入れるでしょう。このような種類の無神論者と話し合うことには、少しは理由があり、また価値もあります。しかし、この世の無神論者のどれだけ多くの人が、このようであるでしょうか? わたしは、このような人はとても少数ではないかと思います。わたしは、全然いないと言っているのではありません。わたしは、とても少ないと言っているのです。人数は多くありません。今日わたしは、これらの人々と議論したり、多くの理由を述べたりして、宇宙に神がおられることを証明しようとするのではありません。聖書は、神の存在の問題を述べていません。聖書はただイエス・キリストや聖霊などを述べているだけです。これが意味することは、神の存在の問題は不可欠なものではないということです。なぜなら、すべての人はすでにその答えを知っているからです。神の存在は、揺るがすことのできない事実です。ですから、それについて述べる必要がないのです。

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神はおられないなどと人は言うことができるのか

 今日もし無神論者の友人(わたしたちは福音を宣べ伝える時に、しばしばこのような人に出くわします)がやって来て、神の存在について語るなら、彼は必ず神はおられないと言うでしょう。あなたは彼に、なぜ神はおられないと考えるのかと問うことができます。そうすれば、彼はあなたに一つか二つの理由を述べるかもしれません。わたしはこのような人に出会う時はいつも、彼らに話し終える機会を与えません。その代わりに、わたしは次のように言います、「どうしてあなたのような人が、神はおられないなどと言うことができるのですか?」。彼らにはもう少し理由があるかもしれません。しかし、わたしは再び遮って言います、「どうしてあなたのような人が、神はおられないなどと言うことができるのですか?」。彼にはまだ一つか二つの理由があるかもしれませんが、わたしは同じことを彼に言います、「どうしてあなたのような人が、神はおられないなどと言うことができるのですか?」。わたしがなぜこのことを何度も繰り返すのか、彼は不思議に思うかもしれません。その時わたしは彼に、わたしたちはまず自分の資格という問題について解決しなければならず、そうしてはじめてわたしたちは、彼の言っていることを論じることができるのであると言います。「どうしてあなたのような人が、神はおられないなどと言うことができるのですか?」。ある人は、このように答えることはごう慢であると思うかもしれません。確かに、このような言葉は人々を妨げるかもしれません。しかし、重要なのは、あなたがどのような種類の人であるかということです。あなたには神の存在を論じる資格はありません。もっと鋭い言い方をすれば、神はおられないなどと言う大胆さをあなたに与えるのは、何なのでしょうか? この地上には、あなたのような人が十九億人います。あなたは何者でしょうか? あなたは自分の体や、あなたの周りで日々起こっている事柄さえも知ることができません。どうしてあなたは神はおられないなどと言うことができるのでしょうか? あなたは、自分の爪がどのようにして伸びるのか、自分の心臓がどのようにして鼓動を打つのか、知っているでしょうか? あなたは、明日雨が降るのか、あるいは明日も自分が食事を食べているかどうか、わかりません。あなたはそのような小さな事柄さえもわかりません。どうしてあなたは、神はおられないなどと言うことができるのでしょうか? わたしは化学については二年間学んだだけです。こういうわけで、わたしは化学についてはあまり語ろうとしません。そうでなければ、そのことについてもっと知っている人たちは、わたしのことを笑うでしょう。あなたはこの世の十九億人の一人にすぎません。それにもかかわらず、あなたは神はおられないなどと言うのです! こういうわけで、わたしは言うのですが、あなたのような小さな人は、神はおられないなどと言う資格はないのです。あなたは自分がどれほど小さいか知っているでしょうか? 今日この地上には、あなたのような人が十九億人います。あなたはこの地球がどれほど大きいか知っているでしょうか? あなたはとても賢く、地球はそんなに大きくないと言うかもしれません。それでは、太陽系はどれだけ大きいでしょうか? あなたは依然として、それはそんなに大きくないと考えるかもしれません。あなたは太陽を持ってきて、それがどれほど大きいか測ることができるでしょうか? もし太陽の内側を空っぽにすることができるなら、その中に地球を幾つ入れることができるでしょうか? 地球一つだけではそれをいっぱいにすることはできません。二つでもいっぱいにはなりません。太陽の中に地球を百個、千個、一万個、十万個、百万個入れても、太陽にはまだ空洞があるでしょう。太陽の中にはどれだけ多くの地球を入れることができるのでしょうか? 少なくとも百五十万個です!そして、わたしたちの太陽系と同じほど大きな惑星系が、この宇宙には無数にあります。ある天文学者が言ったのですが、宇宙にはわたしたちの太陽と同じほど大きな星が五億個あるのです。あなたはどれだけ大きいのでしょうか? どうしてあなたは神はおられないなどということができるのでしょうか?

 あなたに一つの物語をしましょう。わたしには弟がいます。弟は六歳で幼稚園を卒業した時、卒業証書を持って帰ってきました。彼はとても自慢し、自分はすばらしいことを達成したのだと思っていました。彼は誇りながらわたしのところにやって来て、「今日卒業したよ!」と言いました。わたしは彼にどこから卒業したのかと問いました。彼は、「幼稚園大学を卒業したんだ」と答えました。今日、幼稚園大学を卒業した人があまりにも多くいます。幼稚園を出た博士があまりにも多くいます!

 天文学に戻りましょう。天文学者によれば、光の速度は、一秒間に十八万六千マイル(約三十万キロメートル)です。一秒間で、光は十八万六千マイル進むのです。一分間では何マイル進むのでしょうか? 一日ではどれだけでしょうか? 一か月ではどれだけでしょうか? 一年ではどれだけでしょうか? この速度を想像することは容易ではありません。光はそのような驚くべき速度で進みますが、天文学者によれば、星からやって来る光は、二千年以上たってもまだ地球に届かないのです。何と宇宙は広大なことでしょう!人はわずか百八十センチメートルの背の高さしかなく、地面の上では三十センチ四方しか占めません。それにもかかわらず、人は神はおられないなどと言うのです! このように言うのは、本当に最もごう慢で、最もこっけいな人です。このように小さい人が立ち上がって、高ぶりながら、厳かに、断言して、神はおられないなどと言うことが、理にかなっているでしょうか? わたしは何も言う必要がありません。あなたがたはみなその答えを知っています。

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だれが宇宙を支配しているのか

 宇宙には神などおられないなどと言う大胆さのある人がいるかどうか、わたしにはわかりません。しかし、今はこの問題を脇に置いておきましょう。もう一度、宇宙について考えてみましょう。それはとても大きいのですが、それと同時にとても小さいのです。顕微鏡で見分けることのできない物にも、一定の組織、一定の規則、一定の秩序があります。これは、考え得るすべての小さな物についてそうです。かつて人は、原子が最も小さいものであると言いました。後に、電子が最も小さいものであることを、人は発見しました。最近、電子よりも小さな素粒子があることが、見いだされました。これらの素粒子は小さいのですが、それらを制御する一定の原則、一定の規則、一定の秩序があります。もし神がおられないのなら、だれがこれらのことを組織しているのでしょうか? どうしてそれらが調和することができるでしょうか?ですから、すべてのことを支配し、管理する神がおられなければならないのです。そうでなければ、どうしてわたしたちが今日持っているようなすばらしい秩序を、わたしたちは持つことができるでしょうか?物事の秩序には、二つの可能性があるだけです。偶然によるのか、それともだれかが定めたかです。偶然によるのでなければ、だれかが定めたのです。だれかが定めたのでなければ、偶然によって成ったのです。二つのうちの一つが正しいのです。

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偶然によるのか

 偶然によって起こることはすべて、理由もなく起こります。按配によって起こることはすべて、その背後にだれかがいて、計画を立て、それを執行しているのです。もしこの宇宙にすべてのことを按配している方がおらず、すべてのことが偶然によって起こるのであれば、わたしたちは本当に何もわからず、当惑してしまうでしょう。ある友人は、あるものが別のものに衝突して、第三のものが生み出された時に、宇宙が形造られたと言いました。わたしはこのような論理を理解することができません。この世にあるもので、二つのものが不規則に互いに衝突した結果出て来るようなことを、わたしは見たことがありません。わたしのハンカチは、幾つかの枝が互いに衝突して絹を生み出し、綿花が綿花と衝突して糸を生み出し、糸が互いに衝突してハンカチを生み出したのではありません。わたしはこのような理論は全く理解することができません。偶然の衝突によって存在するようになるものなど、この宇宙には何もありません。

 わたしはあなたがたに実際にあった物語を話して、偶然によって物事が生じるというこの点について例証したいと思います。ある人がアメリカの工場を訪れました。その工場は肉をひき肉にする機械を製造していました。彼はその工場の工場長と話をしました。肉をひき肉にするこれらの機械は、上海の肉屋や肉の販売店ではどこにもあります。それは小さい機械で、牛肉を細かくするものです。訪問した時、その人は工場長と宇宙の起源について話し合いました。その工場長は、知恵と力ある神がおられて、宇宙のすべての事柄を秩序立てているに違いないと言いました。そこにいたもう一人の人が言いました、「宇宙に神はおられません。すべてのことは偶然によって起こったのです」。その工場長は彼と議論することはせず、肉をひき肉にするその機械が製造されている場所に彼を連れていきました。その工場長は彼に言いました、「わたしの小さな機械は、八つの部品から造られています。あなたは宇宙は偶然によって存在するようになったと言うのですから、どうぞこの機械を偶然によって組み立ててみてください。わたしは八つの部品と幾つかのねじ回しを一つの箱の中に入れます。箱を振ってみて、ひき肉にする機械をそれから造ることができるかどうか見てみましょう。この工場には数百人の工員がいます。最も有能な工員は、一日に二百の機械を組み立てることができます。田舎の出身で、このような機械を見たこともない素人の女の子を雇ったとしても、どんなに遅くても二、三日で仕事をすることができるようになります。しかし、もしあなたがわたしの言ったように箱を振ったとしても、一か月たっても、あるいは一年たったとしても、一つの機械もできないでしょう。それは不可能です!」。わずか三ドル七十セントの小さな機械でも、偶然によって造り出すことはできません。それでは、広大な宇宙が偶然によって生み出されることができるでしょうか?この世のすべての物体が偶然によって生み出されることがあり得るでしょうか? 大工は、わたしが座っているようないすを半時間で造ることができます。しかし、もしわたしたちがそれが偶然によって造り出されるのを待つなら、座るいすを今日、手に入れることはできないのではないかと思います。この宇宙の多くのものが偶然によって存在するようになるとは、信じられないことです。宇宙がこのように秩序があり、規則があるためには、この宇宙を設計した方がいなければなりません。この世で最も愚かで知識のない人も、このような結論に達することができます。人は愚かでない限り、神がおられることを信じなければなりません。もし彼がこのことを信じないのであれば、彼の思いはどこか間違っているに違いありません。いずれにせよ、神はおられるのです。神がおられないことを人が信じることは、非論理的です。神を信じない人たちは、その思いに問題があるに違いありません。

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良心の証し

 以上の例は、神の存在の客観的な証拠にすぎません。神の存在の問題を、別の角度から、すなわち人の心理の面から考えてみましょう。アメリカに国立地理学会という大きな組織があります。それは、世界の各地の文化と地理を調査するものです。彼らの多くの調査には一つの結論があります。世界のそれぞれの民族は、文明のある民族であれ未開の民族であれ、発展している民族であれ発展していない民族であれ、一つの共通したものを持っています。すなわち神への信仰です。どこに行こうとも、たとえ未開の原住民であろうと、人は神を信じているのです。人は知識がなく、論理的に考えることができず、多くの理由を述べることができないかもしれません。しかし、もし彼が自分の心を調べてみるなら、神がおられることを知っています。多くの人々は、語ることにおいてかたくなであるにすぎません。彼らは良心においては、神がおられることを知っています。

 一九二五年に、南アメリカのジャングルを一人の伝道者が通っていました。突然、彼は、助けを求める叫び声を聞きました。そこで、彼はその声のする方へ走っていきました。彼が川の所まで来ると、一人の人がカヌーに乗って流れを下っていました。川の流れは強く、その人からあまり遠くない所に滝がありました。もしだれもその人を助けなければ、その人は滝から落ちて死んでしまうでしょう。その時、その人は力を振り絞って叫びました、「おお、神よ。おお、神よ。わたしを助けてください。わたしを助けてください!」。その伝道者はこれを見ると、最善を尽くしてその人を助けました。

 次の日、その伝道者が再び同じジャングルを通っていると、ある人が語っている周りに数百人の人が集まっているのを見ました。そこで、彼は近づいていって、その人が語っていることを聞きました。その人は神について語っており、神がおられない理由を幾つも語っていました。その人は語り終えると、聴衆に向かって挑戦して言いました、「わたしは神が存在しないことについて多くの理由を述べました。もしこのことに不服な人がいるなら、今、反論しても構いません」。その伝道者は台の上に上って、言いました、「わたしはどのように反論したらよいのかわかりませんし、また多くの理由を述べることもできません。しかし、わたしはあなたがたに一つの物語を話すことができます。昨日、わたしはジャングルの中を歩いていた時、だれかが「おお、神よ。おお、神よ。わたしを助けてください。わたしを助けてください!」と叫んでいるのを聞きました。わたしはその声のする方へ走り、川のそばまで行くと、一人の人がカヌーの中に座っているのが見えました。水の流れは速く、そのカヌーは滝の近くの方へと動いていました。彼の命が危険にさらされていたので、わたしは彼を助け、彼を家まで連れていきました。今わたしはこの人をあなたがたに紹介したいと思います。昨日、助けを求めて神に叫んでいた人は、今日ここで、神がおられない多くの理由をあなたがたに述べているこの紳士です。わたしの言っていることが本当かどうかは、あなたがたが彼に聞いてみてください」。

 本当に多くの人々は自分の良心を覆ってしまっています。彼らは良心が目覚める前は、多くの理由を挙げて、神はおられないと言うことができます。しかし、彼らは自分の終わりが近づき、死にそうになると、あるいは自分の将来のことを考える時、彼らの良心は、神がおられると彼らに告げるのです。彼らは今はそのことを無視することができます。彼らは、自分は若く、そのようなことは重要でないと言うことができます。しかし、永遠の世の中へと入る日がやって来ると、彼らの眠っていた良心は語り出すでしょう。わたしは何度も語りましたが、良心は眠ることはあっても決して死なないのです。時が来ると、それは語り出します。しかしながら、その時は、神を知るのには遅すぎるかもしれません。

 英国にとても熱心な無神論者の父と子がいました。ある日、父親は死のうとしていた時、床の上で寝返りを打っていました。彼はとても不安な様子でした。息子はこれを見た時、その老人の確信が揺さぶられるのではないかと思い、励まして言いました、「お父さん、しっかりと握り締めてください」。父親は涙を流して言いました、「何をしっかりと握り締めるのですか?」。彼らは神を持っていなかったので、彼らがしっかりと握り締めるものがあったでしょうか? しかし、わたしたちは主に感謝しなければなりません。なぜなら、わたしたちにはしっかりと握り締めるものがあるからです。わたしたちの背後には、わたしたちが寄り掛かることのできるものがあります。わたしたちは、自分たちが信じている方を知っています。

 友よ、どうか内なる声を聞いてください。わたしたちの思いは、しばしばわたしたちに間違った考えを与えます。それは外面の影響を受けます。しかし、内なる声は信頼することができます。それは真のわたしを代表します。どうか内なる勧めに聞きしたがってください。

 わたしはこの問題を調べてきて、生まれながらの無神論者はいないという結論に達しました。環境の影響によってそうなるのです。こういうわけで、わたしたちの良心が最も尊い導き手なのです。わたしたちはいつもその導きに従うべきです。

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祈りの証し

 わたしたちは、宇宙の大きさと小ささ、宇宙の秩序、人の心理を見てきました。そして、それらはすべて宇宙における神の存在を証明していると指摘しました。今わたしたちは別の面を考えてみましょう。それは、クリスチャンの神に対する経験です。この世では、クリスチャンは最もよく神を知っています。わたしたちは神の存在を、クリスチャンの経験から証明することができます。わたしたちは、祈りに対する神の答えから、赦しの恵みから、神の特別な保護から、神を知ります。もし神がおられなければ、信者もいないでしょう。

 わたしは、祈りに関するわたし自身の経験を少しあなたがたに語ります。わたしは普通、祈りに関する自分の経験について他の人に語ることはありません。しかし、今日は少し語ります。一九二六年の旧暦の正月に、わたしは村々で働きをしていました。その時、王連俊兄弟、繆受訓兄弟、陸忠信兄弟などの数名の兄弟たちが、福州で福音集会の準備をしていました。彼らはわたしを招待してくれましたが、すでに多くの人がいるので、わたしは行く必要はないと思いました。その代わり、わたしは田舎に行って宣べ伝えようと思いました。こうして、わたしは六人の兄弟を招いて一緒に行きました。そのうちの二人は今、上海の崑山花園で威立思氏の手伝いをしています。一人は福建省の白牙潭におり、二人は厦門で飛行機の操縦士の訓練をしています。一人は連江にいます。わたしが彼らの名前を述べたのは、彼らはみなこの出来事にかかわっており、このことを証しすることができるからです。わたしたちは船に乗って、梅花郷という村に行きました。そこには魚がたくさんおり、そこの漁師たちは漁から多くのお金を得ていました。六人の兄弟たちのうち、一人はまだ十六歳か十七歳でした。彼は学校を退学させられていました。彼の母親はどうすることもできず、そのためわたしたちの所へ連れてきたのでした。最初の一月は、わたしたちは実際、彼については望みを捨てていました。しかし、二か月目に彼は救われました。彼は救われた後、働きをすることを願いました。三か月目に、彼はわたしたちと一緒に梅花郷に福音を宣べ伝えに行きました。わたしは、その村でわたしの知っている学校の先生と前もって打ち合わせをし、わたしたちがそこにいる間、その学校に滞在させてもらうようにしました。しかし、わたしたちが到着すると、その先生はわたしたちを拒絶し、わたしたちが学校に滞在するのを許可しませんでした。なぜなら、わたしたちがそこで福音を宣べ伝えることに彼は気が付いたからです。わたしたちは暗くなるまであちこちと歩き回りましたが、泊まる所を見つけることができませんでした。最後に、わたしたちは一つの薬草店にやって来ました。そこの主人はわたしたちを喜んで受け入れてくれたので、わたしたちはそこの屋根裏部屋に泊まりました。

 七日の夕方に、わたしたちは初めて外に出て行きました。そこの人々には一つ特別なところがありました。彼らはみなとても礼儀正しいのですが、とても打ち解けにくい人たちでした。わたしたちが一言話し終える前に、彼らは歩き去ってしまうのです。わたしたちは彼らと少し話した後、彼らはわたしたちにやめるようにと求めるのです。わたしたちは彼らにその理由を尋ねましたが、彼らは何も言おうとしませんでした。わたしたちはとても当惑してしまいました。夜になってわたしたちはみな帰ってくると、全員が同じことを感じており、また同じ経験をしたことを、わたしたちは認識しました。わたしたちは、知り合いになった薬草店の主人に、わたしたちの経験について尋ねました。彼はわたしたちに、これらのことで煩わされないようにと言いました。次の日、わたしたちは再び出て行って、福音の書物を売ったり、福音を宣べ伝えたりしました。すると、とうとう若い兄弟が問題を起こしてしまいました。その日、彼は自制することができなくなり、一人の村人を捕まえて、何がどうなっているのかを話させました。その村人は言いました、「あなたは、わたしたちがどれだけ多くの神々を持っているか知らないのです。わたしたちはこれ以上、神々を持つことはできません。ここには大王神がおり、毎年、行列と祭りのために出て来るのです。あなたは悪い時にやって来ました。なぜなら、十一日には祭りがあるので、みんな忙しくてあなたのイエスについて聞くことなどできないからです。この偉大な神は、明朝以来、信頼に値する方なのです。清朝以来、今に至るまで、すでに二百年になりますが、祭りの時は毎回、いつも晴れるのです。雨が降ったことは一度もありません」。その若い兄弟はこのことを聞くと腹を立てて、「今年は、祭りの間に雨が降るでしょう」と言いました。彼がこのように言った時、そこには多くの若者がいました。彼らはそれを聞くと、動揺して言いました、「これらの伝道者たちは、今年、大王が行列のために出て来る時に雨が降るであろうと言っています」。二時間もしないうちに、梅花郷全体にこのことが伝わりました。大王神が行列に出て来る日には雨が降るであろうと伝道者たちが言ったということが、村中に広まっていました。ある人はうわさをして言いました、「もし雨が降れば、彼らの神こそ本物だ。もし雨が降らなければ、大王神こそ本物だ」。わたしたちは家に戻ると、わたしたちの兄弟が言ったことは軽々しいことではないことを知りました。わたしはその若い兄弟に言いました、「だれも天候を支配することはできません。なぜあなたはそのようなことを言ったのですか?」。彼は言いました、「わたしたちは祈ることができます」。わたしは言いました、「そうです、わたしたちは祈ることができます。しかし、神はわたしたちの祈りに答えられるでしょうか? これは神のみこころにかなっていることでしょうか?」。とにかく、わたしたちはみな祈りました。食事が用意されましたが、わたしたちのだれ一人として食べようとしませんでした。わたしたちはみな祈り、ついにはわたしたちの心配はなくなり、わたしたちは平安と確信を持ちました。それから、わたしたちは食事をしました。わたしたちは食事をしていた時、その店の主人に言いました、「大王神が行列に出て来る十一日には雨が降ることを、わたしたちはみな知っています」。主人は言いました、「わたしはそうは思いません。そのような無意味なことはもう話さないほうがよいでしょう。第一に、梅花郷には二千戸以上あり、男はみな漁によって生計を立てています。あなたは、彼らが天候に無知であると思うのですか?彼らは二、三日前に天候がわかるのです。第二に、わたしの小さな店を顧みてください。わたしはこの店で生計を立てています。わたしの小さな店を危険にさらさないでください」。しかしながら、わたしたちはみなとても平安と確信があり、神がわたしたちの祈りを聞いてくださったことについて、わたしたちははっきりしていました。次の日は十日でした。わたしたちは再び出て行きました。今回は、その若い兄弟が十一日に雨が降ると言っただけでなく、わたしたちすべてが同じことを言いました。わたしたちすべては、次の日に雨が降ると言いました。わたしたちが彼らに福音の書物を売ろうとすると、彼らはそれを買おうとせず、わたしたちが宣べ伝える言葉も受け入れようとしませんでした。彼らはみな言いました、「待ってみて、明日何が起こるかを見てみよう。もし雨が降るなら、イエスが神です。もし雨が降らないなら、わたしたちの大王神が本物です」。

 とても不思議なことですが、九日の夜にわたしたちは一つの約束を受けていました。それは、「エリヤの神はどこにおられますか?」というものです。これは神の栄光と関係がありました。十一日の前夜に、すなわち十日の夜に、わたしたちは再び祈りました。もし次の日に雨が降らなければ、梅花郷にいる一万人以上の人々にわたしたちが再び福音を宣べ伝えることは不可能になり、そこでの福音の門は閉ざされるでしょう。だれもそこに再び入って行くことはできないでしょう。わたしたちの間の一人か二人は信仰が弱かったので、その時すぐに神が雨を降らせてくださるよう求めるべきであると考えました。彼らにとっては、その夜に雨が降るほうが良かったのでした。わたしたちは床に就き、次の日は朝遅くなってから起きました。わたしは窓のそばで寝ました。わたしが目を覚ますと、太陽がわたしの目の中で輝いていました。わたしは思いました、「何ということでしょう! 太陽が出てしまっています。わたしたちはどうしたらよいでしょう?」。わたしは服を着るのも構わずに、ひざまずいて祈りました。しばらくすると、兄弟たちがみな一人一人と起きて、ひざまずいて祈って言いました、「おお、神よ。今日は、あなたがご自身の栄光を現される日です。どうか雨を降らせ、あなたが神であることを証明してください」。わたしたちはみな熱心に祈りました。しばらくして、わたしたちは自分がそんなに死に物狂いで祈ったことを叱責しました。そして、神はすでにわたしたちの祈りを聞いておられることを知りました。わたしたちは下の階に下りていって朝食を取りました。わたしは彼らを指導する者であったので、彼らの士気を高めるために、食事の世話をしている兄弟に言いました、「今日の昼の弁当を用意する必要はありません。雨が降るので、わたしたちは外に出て行くことができないからです」。わたしたちは食事に感謝をささげました。食事に感謝をささげた後、一人の兄弟が祈りました、「主よ、どうかあなたがわたしたちの信仰を守り、あなたが神であることを証明してください」。もちろん、これは自然に出て来た祈りでした。この後、わたしたちはお碗におかゆをよそいました。わたしは窓に向かって座りました。わたしたちが一杯目を食べ終わってしばらくすると、屋根に雨の音が聞こえてきました。わたしたちはお互いを見つめ、何が起こっているかを理解し始めました。わたしたちは二杯目をよそいました。わたしは、「わたしたちは祈るべきでしょうか?」と尋ねました。一人の兄弟が言いました、「祈りましょう。この雨では少なすぎます。もっと激しく雨が降らなければなりません。そうしてはじめて人々は、これが明らかな神の行為であり、偶然ではないことを知るでしょう」。わたしたちは再び祈り始めました。わたしたちが祈ると、空は暗くなり、雨が強くなりました。屋根の雨の音は激しくなりました。雨はより激しく降り注ぎました。朝食の後、わたしたちは店の外に立って、大王神が行列のために出て来るのを見ました。大王神は、午前九時に出て来ることになっていました。しかし、雨は九時から十一時までやみませんでした。しばらくの間、行列をすることができなかったので、村人たちはしぶしぶと大王神を外にかつぎ出しました。その日、雨はどしゃぶりでした。そして、道の至る所には二、三フィートの深さの水たまりがありました。大王神が宮から出て来ると、二、三歩も進まないうちに、担ぎ手の一人が滑って、水の中に倒れてしまい、彼と一緒に大王神も倒れてしまいました。指が三本と腕が一本壊れてしまい、その頭もねじ曲がってしまいました。村人たちは再び大王神を引き起こし、その頭を元の位置に戻して、進んでいこうとしました。その時、多くの若者たちが後ろで叫んでいました、「大王神は、今年は問題があるのだ。今年は問題があるのだ」。彼らは行進しながら叫びました。雨はますます激しくなり、もはや進めないことが明らかでした。彼らは大王神を、陳一族に属する先祖の会堂の中へと移しました。村の何人かの長老たちはその中に入り、今年はなぜ雨が降ったのかを大王神に尋ねました。彼らは策略をもって出て来て、すべての人に告げました、「最初は大王神は、今日、行列に出ることを意図していなかった。あなたがたという人が間違いを犯したのだ。大王神は、十四日の午後八時に出て来ることを意図していると言われた。今日はまだ十一日です」。長老たちは、行進を十四日に変えることを提案しました。しかし、若者たちは尋ねました、「それではなぜ大王神はつまずいて、腕と指が壊れたのですか?」。

 昼食の時わたしたちは、神がわたしたちに良い天気を与えてくださり、わたしたちが再び外に行って働きをすることができるようにと、神に祈りました。わたしたちは信仰において強くなり、主が十四日に再び雨を降らせてくださるようにと祈りました。食事の後、わたしたちは再び出て行って宣べ伝えました。その日の午後、空は快晴であり、わたしたちが持っていった本の量は、必要に応じるのには十分ではありませんでした。それらはすぐにすべて売り切れてしまいました。

 わたしたちは十五日には村を去って、家に帰らなければなりませんでした。ですから、わたしたちは、十二日、十三日、十四日が快晴になって、働きをすることができるようにと祈りました。わたしたちはまた、十四日の夜が雨になり、大王神が神ではないことをすべての人が知るようにと祈りました。十二日、十三日、十四日は、すべて快晴でした。わたしたちは十四日の夜に、薬草店で福音集会を開くことに決めました。その時までに、その主人は主を信じました。今日、彼は今なお良い兄弟です。十四日の夜に雨が降り始めました。そして、多くの人々が店の外で待っていました。わたしたちは屋根裏部屋に行き、神がもっと多く雨を降らせてくださるようにと祈りました。主を賛美します。雨はさらに激しくなりました。村人たちが大王神を宮の外に動かそうとした時、十七、八人がそれに従っていきました。しかし、彼らは五、六回つまずきました。多くの若者がその背後で叫んでいました、「神はおられる。大王神などいない」。わたしたちはそこですばらしい働きを行なうことができました。十五日の朝、夜が明ける前にわたしたちは出発しました。主を賛美します。

 わたしたちは祈りに対する多くの答えを受け取りました。これらの答えは、神がおられることを証明します。わたしたちの霊的経験は、わたしたちの神が生きておられることを証明します。

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人はどのようにして神に会うことができるか

 わたしたちはこの題目から、軽々しい方法で立ち去ることはできません。わたしたちは問わなければなりません、「もし神がおられるなら、わたしたちはどうすべきでしょうか?」。神がおられることを信じるだけでは、十分ではありません。アモス書第四章十二節を読んでください、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」。友よ、あなたは神に会う備えができていますか? もしあなたが、神がおられることを知っているなら、愚かな生き方をしたり、怠けて座っていることはできません。第一に、あなたは神に会う備えをしなければなりません。友よ、あなたは神に会う備えができていますか? わたしは、わたしたちのうちのだれも無神論者によってこれ以上欺かれることがないことを望みます。

 もし神がおられるなら、わたしたちは神に会う前に何をしなければならないのでしょうか? それはただ一つしかありません。すなわち、主イエスを信じることです。これが神に会うための唯一の方法です。なぜなら、神はキリストを通してわたしたちに恵みを賜るからです。キリストの外では、すべての人が罪に定められています。

 エペソ人への手紙第二章十六節から十八節は言います、「また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした。それによって敵意を殺してしまったのです。そして彼は来られて、遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました。それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、父へと近づくことができるためです」。第三章十二節に特別な注意を払ってください、「この方の中で、わたしたちは確信をもって、彼にある信仰を通して、大胆に近づくことができます」。わたしたちはどのようにして神に会うことができるのでしょうか?聖書はわたしたちに告げていますが、ただイエスを信じることによってのみ、わたしたちは彼に近づく大胆さを持つのです。

 わたしたちが神に会うのを妨げるものが一つあります。それは罪です。いったん神が存在するなら、わたしたちは神の御顔を見ることができません。罪はわたしたちを神から引き離します。神は、わたしたちが自分の罪を解決するための方法を備えてくださいました。それは主が十字架にかかってくださったことです。十字架を通して、主はわたしたちの罪を取り除かれました。主はわたしたちの罪のために死なれ、わたしたちに代わってむち打たれました。主はわたしたちの罪のために十字架にかけられました。主イエスは死んで復活されました。今や、主を信じるすべての人は、大胆に神の下に来ることができます。なぜなら、隔ての中垣が取り除かれているからです。罪の問題は解決されています。ですから、わたしたちは何の恐れもなく神の下に来ることができます。ある日、わたしたちはみな神に会うでしょう。わたしたちは、神の民として受け入れられるか、あるいは神の敵として拒絶されるかのどちらかです。主は死なれ、罪のすべての問題は解決されています。神の下へと来て、神を受け入れましょう。すべての人は、何の妨げもなく神の下に来ることができます。神の下に来ることのできない人などいるでしょうか? 友よ、あなたはクリスチャンでしょうか? あなたは無神論者でしょうか? わたしは、あなたが主イエスを信じるよう勧めます。今日ここに、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる人がいるでしょうか?友よ、ある日あなたは神に会うことを覚えておいてください。あなたには隠れる方法はありません。最終的にはあなたは神と顔と顔を合わせなければならないでしょう。隠れる唯一の方法は、主の中に隠れることであり、他に方法はありません。ある日、あなたが神の御顔を見て、隠れようとしても、それは遅すぎるかもしれません。ですから、主を受け入れることを願う人はみな、今、主を受け入れるべきです。遅らせてはいけません。

 ある人は、自分は主の贖いを十分に理解していないと言うかもしれません。彼らは、どのようにして主の血がわたしたちを神の下へともたらすことができるかを理解することに、問題を持っているかのようです。わたしたちのすべきことはただ、わたしたちの良心を調べることです。わたしたちの前には一つの案件があります。すなわち、わたしたちの罪です。わたしたちの中には一つの証しもあります。すなわち、わたしたちの良心です。尊い良心は、わたしたちに罪があることを証しします。多くの人々は、神について考えることを恐れます。彼らは神を避けようとします。なぜなら、彼らは自分の良心の中にそのような案件を持っているからです。彼らは神を拒絶しようとします。友よ、あなたは恐れる必要はありません。なぜなら、主イエスはわたしたちの仲保者であるからです。

 わたしたちの主は、栄華と栄光に満ちた天を離れられました。それは、わたしたちをそこにもたらすためです。彼は刑罰を受けられました。それは、わたしたちが平安を持つためです。彼はわたしたちのために死なれました。それは、わたしたちが命を持つためです。彼は拒絶されました。それは、わたしたちが受け入れられるためです。わたしたちは、自分の罪の重荷を下ろすことができます。なぜなら、神が主を裁かれたからです。わたしたちのすべきことはただ、主を信じ、神の下へと近づくことです。もしわたしたちが、主がわたしたちの罪を取り除かれたことを信じないなら、わたしたちの将来は本当に荒涼としています。わたしたちがみな自分の心を開いて、主を受け入れることを、わたしは望みます。もしわたしたちがこうするなら、神はもはやわたしたちの裁き主ではなく、わたしたちの愛すべき父であることを見るでしょう。

 わたしたちの多くは、イタリアに多くの地震があることを知っています。かつてそこに大地震があり、多くの家が壊れ、多くの木が倒れました。多くの人々は、自分の持ち物を持ち、自分の子供たちを腕に抱えて走りました。彼らはみなとても恐れました。しかし、一人の年配の婦人は、他の人たちのように狂ったように走り回ることをしませんでした。彼女は門柱に寄り掛かり、笑っていました。彼女は何も持つことをせず、また隠れるための安全な場所を捜そうともしませんでした。彼女はただ、命を求めて走り回っている者たちを笑っていました。好奇心を持った人が彼女に言いました、「年配の婦人よ、あなたは気が狂っているのですか? 地震があなたを狂わせたのですか? 愛すべき年配の婦人よ、急いであなたの持ち物をかばんにつめて、走りなさい」。その年配の婦人はただ笑い続けて、言いました、「わたしはあなたがたに、起こるべき事柄について語り、主イエス・キリストを信じるようにと勧めました。あなたがたがイエスを信じなければ、地獄に行って硫黄の火で苦しむであろうと、わたしは言いました。しかし、あなたがたはわたしを軽んじ、わたしの言うことを聞かず、わたしが語っていることを冗談と見なしました。今日、神は小さな指を一本動かしているだけです。すると、あなたがたはみなとても恐れています。あなたはどうしてよいかわからず、どうすることもできずに走り回っています。これはわたしにとってはとてもおかしな光景です」。友よ、あなたは今までに自分の将来について考えたことがあるでしょうか? その日がやって来る時、あなたは、命を求めて走り回っている人のようでしょうか、それともどうすることもできない人のようでしょうか? 主イエスを信じたすべての人は、揺れ動くことがないでしょう。彼らは平安を持つでしょう。あなたは地震を恐れるでしょうか? もしあなたが恐れるなら、地獄はそれよりもどれほど悪いことでしょう? あなたは地獄を恐れるでしょうか? 地震は恐ろしく、驚くべきものです。しかし、それは地獄とは比較になりません。友よ、地獄と地震とは比較になりません。あなたは地震のことを思う時、地獄のことを考えてみてください。あなたは地獄の苦しみを受けたいでしょうか? 友よ、どうぞ来て、主イエスを信じてください。それはあなたが地獄の苦しみを逃れて、天の祝福を享受することができるようになるためです。

 ウオッチマン・ニーウイットネス・リー著: 「福音メッセージ集 第一集」pp.7-41、JGW日本福音書房

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