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創世記を黙想する

 第一章 創世記と地質学

 わたしたちは聖書全体は神の言葉であり、すべての言葉は神によって息吹かれたものであることを信じます。敬虔な人たちが心の中でとても嘆かわしく感じているのは、人々がこの神の言葉を軽んじ、反対してきたことです。神の子供たちは、人が神の定めを尊ばないことを悲しんでいます。六十六冊の聖書の中では、創世記が最も疑問を持たれてきた本でしょう。聖書に反対する人たちは、しばしば地質時代と有史以前の発見をもって、神の明瞭な啓示を覆そうとします。地質学的根拠によれば、地球そのものが存在するようになったのは何万年も前からであり、聖書の六千年にわたる歴史の記録は信頼できるものではないというのです。この世もまた科学の名の下に創世記に攻撃を仕掛けてきます。
 多くの主にある親愛なる兄弟たちは学者ではないので(わたしとて同じです)、このような嵐に遭うと迷ってしまいます。地質学というのは、わたしたちの考察の一部にはなり得ないものですが、わたしたちはその開始に当たり、みんなの益のため主の恵みによって神の言葉を学び、また彼の御言がいかに完全なものであるか考えてみたいと思います。そうするのは、わたしたちが彼の臨在の中で、彼の麗しさを静かに眺めることができるためです。
 創世記は神の啓示ですが、地質学は人の発明です。神は真理をすべてご存じです。それゆえに、彼の啓示が間違うことは絶対にあり得ません。人はただ一部分しか見ることができません。それゆえに、彼らの推測は正確ではありません。もし創世記と地質学を天秤にかけるなら、わたしたちは地質学ではなく、創世記を選ぶべきです、なぜなら創世記の背後には神がおられるからです。もしこれら二つのものに何か基本的な矛盾があるとすれば、間違っているのは地質学のほうです。聖書の権威は疑いのないものです。すべて聖書に相反するものは間違っています。神がわたしたちにこのような完全な啓示を与えられたことのゆえに、わたしたちの父なる神に感謝します。もし神と人との間に何か食い違いがあるとすれば、わたしたちはむしろ人の言うことを捨て去り、神の言われることを受け入れます。もし食い違いがなければ、なおさら無能な人類としては、天からの啓示を信じるべきではないでしょうか? 
 人はしばしば中国や古代バビロンや他の国々に伝わる、おかしな創造の話をあざ笑います。多くの労力を費やして、この種の伝説を論破しようとする科学者はどこにもいません。なぜなら、伝説自体あまり重要なものと考えられていないからです。彼らはそういうものには目もくれないのです。ところが、聖書に対する人の態度はこれとは大いに異なっています。力の限りを尽くして聖書に反対してきたという事実は、聖書が力のある書物であることを証明しています。彼らは聖書の並はずれた性質を認めているがゆえに、それを国々に伝わる言い伝えのたぐいと同じように扱うことはできないのです。
 すべて創世記の第一章を読んだことのある人は、その記述の美しさに驚嘆せざるを得ないでしょう。普通でありながら、実にすばらしいのです! 単純な記述があるだけで、その信頼性を証明するための理論や理屈はありません。この本の著者はその本によって制限されておらず、その創造の記録以上に超越していました。その本の本当の著者は宇宙よりもはるかに高いおかた――神です。
 もしこの本が、著者であるモーセ自身の学びに従って、あるいは彼自身の考えによって書かれたとすれば、完全にエジプトで訓練された彼の知性は、確かに、創造についてエジプト的な理論によって影響を受けていたはずです。しかし、だれが創世記の第一章において、エジプト哲学の痕跡らしきものを見いだすことができるでしょうか? これは一体なぜでしょうか? それは、モーセが神から霊感を与えられてこの書物を書いたからです。そうでなければ、地が水の中から現れたことなど、どうしてモーセは知ることができたでしょうか? もちろん、これは地質学によって確立された事実であり、近年になってわかったことです。モーセが霊感を受けなかったとすれば、この事実を説明することはとても難しかったでしょう。地上での命の発展について言えば、もちろん、聖書は進化論を支持しませんが、そこには進歩があったという事実を完全に否定しているわけではありません。初めに、水中に住む生き物があり、やがて、人が存在するようになりました。科学者はモーセの記録に驚嘆しないのでしょうか? もちろん全知の神は事実に基づいて霊感を与えたことでしょう。そのような全知の神によって霊感された記述に間違いはあり得ません。
 しかしながら、聖書は科学の教科書ではありません。その目的は、罪人を「キリスト・イエスに対する信仰によって救いに」(Uテモテ三・十五)導くことです。とはいえ、聖書にはいかなる科学的な誤りもありません。たとえそこに科学と矛盾する何かがあったとしても、それは聖書の間違った解釈か、もしくは科学の間違った判断かの、いずれかです。過去、地質学者たちによってなされた多くの発表は覆されてきました! 彼らの主張の多くは間違っていたことが証明されました。カミングスは言いました、「地質学は過去何度も間違ってきました。再び間違う可能性もあります。それらの理論をあまりよく知らない人たちが性急で大胆な主張をするので、不正確さを露呈してしまうのでしょう」。
 聖書は科学の教科書ではないので、創造の「物語」を述べるだけで、創造の「理由」については述べていません。科学というのは、この理由に関心を持つ学問です。もちろん、多くの場合こうすることによって成功するでしょう。しかし、人の限られた知能による研究と神の記録とが一致しないからと言って、わたしたちは理論上の理由により、聖書の記述を覆してはいけません。神はすべての事を知っておられるので、すべて彼が言われたことは事実です。もしこの世が、神の語られた言葉と神がそれらを語られた理由を学びたいのであれば、神の権威を退けず、また自分自身の考えに固執すべきではありません。知恵を持つことは良いことですが、この一種類の愚かさは、あなたにさらにまさった祝福を与えるでしょう。
 

1.六日間での大地の回復

 わたしたちは六日間という時、六掛ける二十四時間から成っているということを知っておくべきです。聖書では、しばしば一日が、「主の日」のように、ある一定の長さの時間を表すために用いられています。ところが六日間は六つの期間ではありません。先入観を持たない読者であるなら、これを期間と考える人はまずいないでしょう。聖書が「日」を期間として用いる場合、それに数字を限定してはいません。もし日の前に数が付いているのであれば、それは地に一大変革をもたらすための時間を告げているに違いありません。さらに、「夕となり、また朝となった。第一日である」(五節)とはっきり告げています。夕と朝を合わせて一日であれば、一日が二十四時間から成っていることになります。それに、神は後ほど、第七日に彼が休まれたことに基づいて、安息日を設けられました。出エジプト記第二〇章の安息日は二十四時間です。第七日が二十四時間であれば、第一日から第六日も同様に、一日二十四時間であるはずです。あるいは、この六日間を六つの地質学的な期間と考えたなら、「夕」は何に対応し、また「朝」は何に対応するのでしょうか? またそのように考えると、第三期以前には、地には草も木もなく、第六期以前では、地には動物の化石すらないことになります。これはあり得ないことです、なぜなら地の表面下の地質学で言う多くの地層において、動物と植物にいかなる分離も見られないからです。もしわたしたちが、この六日間を六つの長い期間と考えるなら、第六期で創造されたアダムは、罪を犯す前、長い時間パラダイスで住まなければならなかったことになります。創世記の著者であるモーセには、日数を使って期間を表すという考えはありませんでした。わたしたちは、神の言葉を曲げて自分の観念に合わせようとしたり、人々の攻撃をかわす目的で、そうしてもいけません。もしわたしたちが自分の考えで聖書を解き明かすのであれば、わたしたちは他の人から責められるだけでなく、聖書を危険にさらすことになります。以上いろいろ吟味した結果、わたしたちは一つの結論を出さなければなりません、すなわち六日とは六日であって、六つの期間ではないということです。わたしたちの神は全能の神です。彼が復興なさるのであれば、一日あれば十分です。六つの期間も必要はありません。しかし彼が世界を復興するのに六日を費やすことをよしとされたのであれば、わたしたちは謙虚に神の働きを観察し、彼の偉大さをほめたたえる必要があります。どうしてわたしたちは再生されていない人たちの意見に同調しなければならないのでしょう? もし地質学が正しいなら、一節と二節の間には、地質学で言う地層を生み出すのに十分すぎるほど長い期間があるということを、わたしたちは知っています。

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2.第二日

 第二日、神は再び命じられました。神はおおぞらに空気を入れることによって、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられました。神はおおぞらの水蒸気と地上の水を分離されました。再び、科学者たちはこの美しい記録を賞賛すべきです。これはおおぞらの上にある水と下にある水とを分離して、おおぞらを拡張する現象なのですが、境界線は固定されていません。わたしたちの上にあるおおぞらは、聖書に記録されているとおり水蒸気をたくさん包むことができます。しかしながら、それは天の水分を保つことのできる貯水槽のようなものではありません。なぜなら二〇節で「鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」とあるからです。このおおぞらは、鳥が飛ぶことのできる範囲また領域です。
 「神はそのおおぞらを天と名づけられた」(八節)。この「天」は、一節の天とは違います。一節の「天」は、全宇宙とそれに満ちるすべてのものを指します。八節の「天」は、この地の「天」です。一節の「天」は、決して損なわれませんでした。神の裁きにより、わたしたちの地とおおぞらの位置が、原始の状態から変化してしまいました。神はその働きを見て、その六日の働きのうちの五日に関しては良しとされました。ところが第二日は、「神は見て、良しとされた」とは言われませんでした。神の御言は、この日を見落とされたのでしょうか? 違います、神が言葉を省略する場合、彼が言葉を語る場合と同様に意味があります。聖書は一字一句に至るまで、神の霊感を受けて書かれたものです。ここで省略されているのは、何かサタンと関係があります。彼は空中の権を持つ君です(エペソ二・二)。彼の手下の悪鬼どもは、「もろもろの天にある悪の霊的諸勢力」(原文)です。神はおそらく、おおぞらにサタンと彼の悪鬼どもの住まいを見られたことでしょう。そのために、神はそれを見て、良しとは言われなかったのです。ある人は、「どうして邪悪な霊どもが(エペソ二・二)、おおぞらに昇ることができたのか?」と尋ねるかもしれません。わたしたちは、彼らの監獄は、全地を覆っている「淵」、すなわち深い海であると言いました。神が水を分けておられた時、彼らはおそらく、自分たちをおおぞらの上の水に結び付けることによって、監獄から逃げ出す機会を得、それによって彼らの支配者が住む天に移住したのではないかと思います。こういうわけで、新約聖書の中には、邪悪な霊どもが天にいるだけでなく、また地で働いているという記録があるのです。彼らは逃亡者ですが、神は彼らが底知れぬ所へ投げ込まれるその時が来るまで、天にとどまることを一時的に許されました。おおぞらには暗やみの王国の司令部があって、サタンのほとんどの働きは、その空中から始まります。ですからわたしたちが、集会したり、祈ったりするために集まる時、サタンの圧迫を受けないように、わたしたちは主の尊い血をもって空気を清めてくださるように神に求めるべきです。

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3.第三日

 第三日、水は分けられましたが、全地は依然として水で覆われていたため、乾いた地はありませんでした。神は再び命じられました、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」(創一・九)。ここで語られた言葉は、わたしたちがすでに説明したことと一致します。神は「かわいた地があらわれよ」と命じられましたが、それは、その時まで現れることなく、長い間、水の下に沈められていた地があったということです。神は、「かわいた地が無から現れよ」とは言われませんでした。彼はただ水が引くようにと命じ、もともと彼によって創造された地が、再び現れるようにされました。これで、神の六日の働きが創造でなく、復興であったということが、またさらにはっきりするでしょう。
 詩篇第一〇四篇五節から九節は、神がどのようにしてまず地を創造されたのか、またどのように地を裁かれたのか、そして最終的にどのように洪水をしかりつけて(創世記の第三日での働きを指す)、地を回復なされたかについて語っています。エホバは、「地をその基の上にすえて、とこしえに動くことのないようにされた」(五節)。これは神の原始の創造のことを言っています。「あなたはこれを衣でおおうように大水でおおわれた。水はたたえて山々の上を越えた」(六節)。これは、そのとき地上にいた様々な被造物の上に、神の裁きが下された後の状態を指します。そして、これが創世記第一章二節において、地を覆っていた水です(第一章九節と比較)。「あなたのとがめによって水は退き、あなたの雷の声によって水は逃げ去った。山は立ちあがり、谷はあなたが定められた所に沈んだ。あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、再び地をおおうことのないようにされた」(詩一〇四・七―九)。これは、第三日の神の働きの前半の部分を指します。「とがめ」とか「雷」は、創世記第一章九節の神の命令に対応します。「退き」とか、「逃げ去った」は、どのように水が「一つ所に集まった」のかを描写しています。「山は立ち上がり、谷は沈んだ」とは、山や谷が創造されたということではありません。なぜなら、山は第一章六節において、すでに存在していたからです。むしろ、それは水が引いた後の水に沈んでいた山や谷が、前の世界ですでに存在しており、それが再び現れたということです。すなわち、水が引いた後、「かわいた地」が現れた時の、山や谷の状態を言っています。「……あなたが定められた所に……。あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、再び地をおおうことのないようにされた」(詩一〇四・八―九)。これらの数節の御言は、天の下で水がいかにして一つ所に集まり、乾いた地が現れたのかを、はっきりと述べています。このようにしてわたしたちは、現在わたしたちが住んでいる世界が、神の復興の働きの結果できたものである、と確かに信じることができます。
 地が水から出てきたことは、科学でも証明されています。地質学者たちは、地質学で呼ばれる地層はすべて、水の下で形成されたものであると信じています。多くの人々は、詩篇第一〇四篇五節で述べられているような、地の基についてはっきり知りません。わたしたちは、創世記第一章十節に述べられている「神はそのかわいた地を陸と名づけられた」という御言から、基とは一体何を意味するのか知ることができます。地の基と言う時、それは「かわいた地」を指すのであり、地球全体を指すのでありません。
 第三日、神はさらに働かれました。地が水から現れ出ましたが、そこにはまだ植物もありませんでした。ですから神はそれを地に生えさせようとされました。

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4.第四日

 第四日、乾いた地が完全に復興されたので、次に神は天体を回復するためにこられました。彼はすでに第一日に光を呼び出されたので、天のおおぞらに発光体を造り、そこに光を放たせました。第一日の光は、夜と昼を分けました(四―五節)。今や発光体もまた夜と昼とを分けました。幾つかの点で、第一日の「光」と、ここの「発光体」とは似通っています。おそらく第一日の光は、半日は地の半分を照らし、残りの半日は地のもう半分を照らしたことでしょう。このようにして、第一日に昼があり、また夜がありました。第四日、神は発光体を造って、第一日の光をその中に入れ込みました。地とその発光体とが互いの周りを回転し始めた時、それらが夜と昼を分けるようになっただけでなく、また、「しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり」ました(十四節)。
 神が造られた大きい光は、太陽でした。創世記第一章十六節は、神は太陽を創造されたとは言っていません、なぜなら太陽は、はじめに創造されたからです(一節)。神はただ復興の働きを成しておられたにすぎません。太陽はアダム以前の時代にも、おそらく発光体であったのでしょうが、サタンの反逆の後、その影響を被り、暗やみに包み込まれて、その光をすべて失ったのでしょう。それにもかかわらず、地はおそらく依然としてその周りを回転していたことでしょう。第四日に、神は太陽を回復して、再び光をそれに戻し照らさせたので、また発光体となりました。
 科学者たちは、月は死んで荒廃した荒野であるとわたしたちに告げます。もしそれが本当であるなら、サタンの反逆の後、太陽、月、星はすべてその影響を被ったと考えてもよいでしょう。
 神が二つの大きな光を造った後、彼は星を造られました。再びわたしたちが注意するべきことは、星はその時に創造されたのではないということです。なぜなら、それらははるか昔から存在していたからです。ヨブはそれを証明しています。ヨブ記第三八章四節から七節で、エホバは言われました、「わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。……あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」。ここの地が、原始の創造の地であろうと、第三日に復興された地であろうと、一つの確かな事は、地が形成される前から、星はすでにあったということです。地が形成された時、明けの星は相共に歌い、神の働きを賛美していました。創世記において、神は以前から存在していた星の配置替えをしていただけです。彼が、光を太陽へと集め、それを大きな光とした後、彼は、地の必要に応じるため、星を回復させて、空に現し出させました。
 聖霊はモーセに霊感を与えて、神の働きを人の言葉によって描写させました。なぜなら、聖書は人に対して書かれたものだからです。彼は太陽や月や星の位置とか機能とかにはいっさい触れず、ただ地と人との関係にのみ言及しました。季節、日、年は、他の被造物とも関係していますが、「しるしのため」にという言葉を用いるのは、特に人のためです。なぜなら、人以外、しるしとなる天体の動きを観察できる者はいないからです。神はただ人の立場から、太陽、月、星の位置と機能を述べているだけです。他のことは述べていません。人の目には、太陽は大きな光であり、月は二番目で、星はさらに小さいです。神はわたしたちのようにちっぽけな人のために、このように大きな宇宙を用意してくださったとは、すばらしいことではないでしょうか?

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5.第五日

 第五日、神が乾いた地と天体とを回復された後、彼は生物を創造して、地に住まわせる用意をされました。「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」(二〇節)。神の命令は神の目的を表しています。「神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された」(二一節)。神はこれらの物を無から創造されました。わたしたちは神がどんな材料を用いて魚や水の中に住む生き物を造られたのか知りません。鳥について言えば、第二章十九節で、それらは土で造られたと告げています。
 科学者たちによると、最初に存在した生き物は水の中であり、次が陸上であると言います。水の中に住む生き物とは、あらゆる動物の間で、最も原始的な部類に属します。今日においても、依然として大半の生き物は海の中に住んでいます。一方で鳥は、すべての温血動物の中で最も原始的な種類です。わたしたちは科学が聖書の記述といかに似通ったものであるか、見ることができます。聖書は科学によって裏づけられてはいますが、信仰とは科学の助けを借りずに信じるものです!

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6.第六日

 第六日、神はさらに進んで、獣、家畜、這うものを創造されました。最終的に、彼は彼ご自身のかたちに人を創造されました。わたしたちは人の創造については、後のメッセージでもっと詳細に論じることにしましょう。ここでは簡潔にただ題目程度にしましょう。創世記第一章では、人の創造について簡単に触れ、被造物の中における人の地位を見せていますが、第二章では、人の起源について詳細に述べ、神と人との関係をわたしたちに見せています。
 わたしたちは、人は神によって「創造された」ということを知るべきです(二七節)。人は下級な動物から進化してきたのではありません。前にも述べたように、「創造」という言葉の意味は、無から何かを造り出すことです。それは神の特別な働きであって、進化という自然淘汰ではありません。聖書は進化論を信じません。それは永遠にむなしい思想です! 第三日で、神は各種類の植物、木、草、野菜に、その「種類にしたがって」種を生ずるように命じられました。草が木になることはありませんし、一つの木が別の種類の木になることもありません。第五日で、水に住む生き物と鳥は、すべて「種類にしたがって」いましたし、第六日で、獣、家畜、這うものもまた、「種類にしたがって」いました。あらゆる生き物は「それぞれの種類にしたがって」いました。聖書はどのように各種類の生き物が分類されていたのか告げていませんが、「種類にしたがって」という言葉は、当時のあらゆる生き物は異なる種類であったということを、証明するのに十分です。神がすべては「種類にしたがって」と述べるからには、各種の境界線は神によって引かれたのです。ですから、一つの種類が別の種類に進化する可能性は全くないことになります。植物が動物に変化することはありません。ある種類の植物が別の種類の植物になったり、ある種類の動物が別の種類になったりすることもありません。わたしたちクリスチャンは神の言葉を信じます。何であれ、「主がこのように言われる」ことを踏み越えるものを、わたしたちは信じません。わたしたちは神の御言に矛盾する論理に対しては、どれほど耳を閉ざすべきでしょうか? 神の御言はあらゆる問題を解決するのに全く十分です。この世はわたしたちの論理を軽べつするかもしれませんが、わたしたちは神の御言に満足しています。哀れな人は、わたしたちの神を信じません。その結果、彼らは当てもなくさ迷い、自ら彼らの信仰の基礎となる論理を考案するのです! 彼らにとって神が無から有を呼び出すとか、人を地のちりから造り出すということは、あまりに信じ難いことなのです。けれどもある種類の動物の小さな胎児が、数多い進化の過程を経て猿になり、さらに多くの進化の過程を経て、猿から人へと変化すると言われても、わたしたちにとってはそれこそ信じられるものではありません。猿が人に進化するなど、信じることはできません。それは、神が人を創造されたこと以上に信じ難いことです! わたしは読者に対して、このような終末のたわごとを信じることのないよう警告します。このような話を信じるべきではないし、また耳を貸すべきでもありません。わたしたちはこの種の論理を含んだ雑誌や本を読むべきではありません。わたしたちは、彼の御言が明解でわかり易いことを、神に感謝しています。彼はそれぞれを「種類にしたがって」と言われましたが、わたしたちの周りの動物や植物は、すべてこの言葉どおりに行動していることを、わたしたちは見ます。以前、進化論者たちは、人の祖先は何千年も前はある種の動物であった、と言いました。今や彼らは何千年後には、わたしたちの子孫たちは手の指も足の指もない、形のない動物になるであろう、と言います。彼らは何千年前や何千年後の未来の事を、いわゆる決して見ることもできない、意義を申し立てることさえできないようなことを語っているのです! わたしたちの聖書は、現在の書です。現在、あらゆる生き物はその種類にしたがって増殖しています。聖書は、いい加減なことを言っていません!
 先に述べた多くの著者たちが言及しているように、神に対する多くの呼び名の中の一つである、「エロヒム」は、原文では複数形になっています。しかし、創世記第一章二六節の、動詞は単数形になっています。複数名詞に単数の動詞では、合わないのではないかと思われます。ところが、これは神が三で一、一で三であるという意味なのです。神格の中には一人以上のパースンがおられるので、名詞は単数形ではありません。二人のパースンでもありません。ですから、両数形でもありません。さらに、三人のパースンです。ですから、そこに複数形の指示「エロヒム」があります。三人おられますが、三人の神ではありません。このために、動詞は「複数形」ではなく、「単数形」が使われています。このことは神が三一であることを啓示するものです。聖書では、あからさまには述べていませんが、わたしたちは、聖書の中に、この事実を指し示している多くの証拠を見いだすことができます。三一の教えが、聖書における偉大な教えであることには間違いありません。さらに、二六節で「われわれ」と言って、神聖なパースンが複数であることを示していますが、動詞「造る」のほうは、神のご目的の一を指し示しています。第一章では、「神は言われた」という言葉が三十一回出てきます。神が言われたのは神の御言です。ヨハネの福音書第一章では、すべてのものは神の御言によって造られたと言っています。創世記第一章は、創造における主イエスの働きを暗に言っているわけです。このようにして、三一の神は、創造において共に働かれました。わたしたちは、「神」と「神が言われた」と「神の霊」を持っています。御父と御子と聖霊がみなここにあります。
 神が人を創造される前に、彼は立ち止まって、神格の間で話し合いをされた後、このように言われました、「われわれのイメージに、われわれの姿にしたがって人を造り、これに治めさせよう」(原文)。わたしたちは、神がこのことで話し合われたということを見る時、これは神にとって、いかに重大な事であったかがわかります。これは、わたしたちの先の説明が正しかったことを証明して見せているようです。サタンと地の先住者たちはすでに失敗してしまいました。神は地と天を回復し、人が住むのにちょうど良くそれらを造られました。あらゆる生き物も準備されました。神格の間で少し立ち止まって、話し合われたようです、「見よ、わたしたちは、今、人を創造しようとしています!」。これがこの数箇所の御言の霊です。
 ここで、神は人を創造した目的を告げておられます、「これに治めさせよう」。サタンは打ち破られました。神の裁きの下で、彼にはもはや世界を統治することはできません。事実、彼はまだ自由ではありましたが、彼に対する裁きはすでに宣告されていました。神によって復興された地は、サタンとは何の関係もありません。地にあるすべてのものは、新しい秩序の表れそのものです。サタンは依然として「この世の君」という肩書きを保持してはいますが、神によって創造された人は自由意志を与えられました。彼には自治権があります。神はサタンの権威とは別に、新しく創造された動物や植物だけでなく、地全体をも治めさせるために、人を立てられました。もし人が神の与えられた権利と権力を注意深く保持していたとすれば、サタンの「この世の君」という肩書きはただのむなしいものになっていたことでしょう。神はサタンの権威を廃棄したいのです。なぜなら、彼はすでに裁かれてしまっている存在だからです。神がサタンを追い出すことは実に簡単です。ところが、理由はよくわかりませんが、神は人が彼の同労者となって、悪魔のわざを滅ぼすことを欲しておられます。そのために、神は人を創造し、人に治めさせようとされたのです。サタンもかつては同じ身分を持ちながら、それを失いました。不幸にも人はすぐに失敗してしまいました。人は自らの権利を失い、再びサタンがこの世の君として彼の力と支配を取り戻しました。第三章で、わたしたちはこのことを見ますが、一つの事だけははっきり知っておく必要があります。神のすべての目的と働きには一つの到着点があり、それはサタンの力を取り除くことです。主イエスは彼を敵と呼ばれました(マタイ第十三章)。ですから、わたしたち信者も神の選ばれた民として、この目的――悪魔の力を滅ぼすこと――を忘れてはいけません。わたしたちが何を行なおうとも、それが良いか悪いかを問うのではなく、そのことが神に益を与えるかどうか、サタンを滅ぼすことかどうか、を問うべきです。もしわたしたちの努力が暗やみの王国に影響を与え、悪魔に損害をもたらすものでないとしたら、わたしたちはそれを行なうべきではありません。神に対するあらゆる働きにおいて、わたしたちはただ単に表面的な結果を求めるべきではありません。むしろ、わたしたちは、霊的な領域において、だれが益を受け、だれが損失を被るのかを考慮すべきです。これは霊的な戦いであって、血肉における争いではありません。ある日、裁きの座の前での、わたしたちに対する裁きは、この水準によって測り与えられるでしょう。わたしたちの働きが残るか、あるいは火で焼かれるかは、それが、どれほど神の目的の成就に助けとなったかによります。暗やみの力に対抗する最良の方法とは、一面において、サタンの勝利を受け入れず、わたしたちの霊の中で彼の働きに抵抗することであり、別の面では、サタンの働きと策略を滅ぼすために、わたしたちの武器である祈りを用いることです。また同時に、神のみこころに実際的に従うべきです。わたしたちが神のみこころに従う時、サタンは打ち負かされます。
 人はまず神のイメージ(かたち)に、次に彼の姿にしたがって造られました。これは人の物質的な体だけを言っているのではありません。「神のイメージに」とは、人が地上で神を代表するという意味であり、「彼の姿にしたがって」とは、人が神の種類にしたがっているということ、言い換えると、人は彼の種類であるという意味です(使徒十七・二八)。道徳的に見て、また知性の点では、神と人の間には類似点がありますが、それは人が神を知り、神と交わるためです。不幸にも、人は罪を犯したために、神のイメージと姿を失いました。今、神に関する人の無知は、想像もできないほどです。ですから、人が上から再び生まれるのでなければ、人はどのように神と交わるのかを知らないでしょう。パウロは、わたしたちに、人は「神のイメージであり、栄光である」(Tコリント十一・七)と言いました。神はご自身の栄光を表現するために人を造られました。神は、彼の栄光を空中にいるサタンに対して表したいのです。一番目の人は失敗しました。しかし、二番目の人は失敗しませんでした。彼は神のパースンの正確なイメージ(かたち)であり(ヘブル一・三、〔原文〕)、彼はまた神を完全に表現することができました。
 「神はまた言われた、『わたしは……種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのものには、……食物としてすべての青草を与える』」(創一・二九―三〇)。罪が入る前の世界では、肉を食べませんでした。肉を食べるのは、罪深い世界においてだけです。来たるべき新天新地では、肉を食べることを何も言っていません。食べる価値のある物は命の木の実だけとなるでしょう。現在の状況で、神の意見とは、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈りによって、きよめられるからである」(Tテモテ四・四―五)です。罪に満ちている世界で、もしわたしたちが肉(四・三)を食べることをしないとしたら、それは、現在の世界がのろいの下にあるという、事実を否定していることになります!
 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創一・三一)。神は良くない物を造ったりされませんでした。悪い物は、罪の結果やってきたのです。それらは神が創造されたのではありません。この罪深い世界にあって、わたしたちは神につぶやくべきではありません。なぜなら、彼にはいかなる邪悪もなく、彼が造られた物はすべて良かったからです。神はわたしたち人を親切に取り扱ってくださいます。第三日に、神はまず、さまざまな種類の野菜を造り、それらを食物として動物たちに与えられました。第四日に彼は鳥を、第五日に地の動物を、第六日に人を創造されました。彼が人をそこに置かれる前に、彼は良い秩序の中ですべての環境を整えられました。もしわたしたちが、この事実を本当に信じるなら、それはわたしたちにとって何という慰めでしょう! 神はいつも彼の被造物に対して、このように備えをしておられます。草が成長するため、彼はまず地を用意されました。動物の命を養うため、彼はまず植物の命を用意されました。ところがわたしたちは、しばしばこの事実をありのままに見ることができないがゆえに、思い悩むのです。神とその働きを、信仰を持って見ることのできる人は幸いです!このような心は何によっても揺らぐことはありません! 

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7.第七日

 第二章の初めの三つの節は、第一章に含めるべきです。第七日に、神はいかなる働きもされませんでした。彼はこの日、安息されました。わたしたちが一つだけ知っておくべきことは、この安息が、「神の」安息であって、人の安息ではないということです。聖書は、わたしたちに、これは「神の」安息日である、と告げています。神は六日間働き、そして休まれました。これは物理的に休むことを指すのではありません。なぜなら、神には疲れということがないからです。「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることがない」(イザヤ四〇・二八)。では、この安息とはどういう意味でしょうか? これは物質的なものではなく、霊的な安息を言います。神は満足されました。神は創造されたすべての物を見られた時、それは、はなはだ良かったので、彼は満足されました。聖書を注意深く読む人はすべて、これが神の安息の意味であるとわかるでしょう。神は人がそれを守るように安息日を定められたのではありません。人は何の働きもしていなかったので、彼は休む必要はありませんでした。アダムが働かなければならなくなったのは、彼が堕落した後でした(創三・十九)。この時点で、アダムはまだ罪を犯していませんでした。ですから、彼は第七日に休む必要はありませんでした。このため、わたしたちは、この安息日を、ユダヤ人の律法(わたしたちが守る必要のないものです)に関するものであるかのように考えるべきではなく、むしろ神の創造における安息日と考えなければなりません。わたしたちは、神は人に安息日を守ってもらいたくて、それを人に与えられたのではないということを、忘れてはいけません。その日から、二千五百年もの間、聖書には「安息日」という言葉は一回も述べられていません!
 わたしたちは、もう一つのことを知っておくべきです。第六日には、「夕となり、また朝となった」と述べられています。しかし、第七日の安息日には、この言葉がないのです! 神は働かれた後、夜のない昼の永遠の輝きの中で安息されました! この安息の日は、ヘブル人への手紙第三章と第四章で述べられた、神の民のための来たるべき安息の日の予表であり、その時、神の同労者たちは、夜のない日々を永遠に至るまで彼と共に安息するでしょう。その日のことを考える時、わたしたちの心は喜びに満たされないでしょうか?

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ウォッチマン・ニー ウオッチマン・ニー全集第 三巻 クリスチャン(一)pp.52-68

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